飴玉とペールエール
ブログを書くのを随分放置してしまっていた。気がついたら冬もおわり、桜が綺麗な時期に。
どうにも巷を流行のおニューなウイルスのおかげで生活に制限が。図書館を気軽に利用できないことがこんなにも辛いとは。
居場所は、居場所がないときに初めて気がつくものだ、というような文章を東畑開人著『居るのはつらいよ』でみかけた。
人と集まることで得られる「居場所」の選択肢が、どんどん狭まっていることに気づく。
友人と通話してみたりして、なんとか乗り越えようと試みている。今日もこれからリモート飲み会の予定。
友人は気軽に電話をかけて話が出来るが、そうでない人もいる。たとえば、大学の教官とか。わたしはいろんな教員にお世話になっていて、どうでもいい雑談のようなものが、心の拠り所になっている自覚がある。メールでそんな内容はいちいち省いてしまうし、友達ではないので気軽に連絡しようとも思わない。
先月まで、派遣社員として働いていて感じたことがある。それは、どうでもいい他愛のない会話こそ、大切なのではないか、というものだ。どうでもいい会話って、意外と、信頼の上でしか成り立たないんじゃないか。一見生産性のない会話が、コミュニケーションを円滑にするし、信頼を築く。
どうでもいい会話が、意外と記憶に残っていたりして、生活の中でふとした瞬間にその人を思い出したりする。あるいは、一見世間話に思えることが、研究のタネになったりもする。
それに、どうでもいい会話は、余裕がないとできない。必要に駆られている場合は、案件の対応に追われていたりして、一息つく間もない。学会で忙しい時期なんかは、中々アポだって取れないし、私自身も論文の執筆や課題に追われているときはそんな余裕もなくなったりする。
ほんとうは、こういう時にこそ、自分を冷静に保つために、どうでもいい会話が必要な気がする。
1日でもはやく、そんなどうでもいい会話と日常が戻ればいいと思っている。
今私に出来ることは、手元にある書きかけの論文を書くことと、こんな時期だからこそ勉強することだ。たくさん学んで、考えて、話したいことを書き留めておこう。
今日はこれからビールを開けるので、飲み過ぎないようにすることくらいか。